舞台『モノノ怪 〜座敷童子〜』感想

舞台『モノノ怪 〜座敷童子〜』千秋楽を観てきました。

めちゃくちゃ面白かったです。

 

※ネタバレ有

 (前作舞台『化猫』にも少し触れる)

 

 

 

 

 原作アニメ『モノノ怪』(あと『怪 〜ayakashi〜』)が好きなので、再現度の高さや過去シーンの追加など嬉しいところもあり、キャストの演技力も良かった。

 

 薬売りが腕をピッと水平に振るときや、札をシュッと投げるとき、対魔の剣をシャキンと持ち替えるときなど、そんなに大きな動きではないのに見栄えがする。役者さん(新木宏典)がハマり役かつ上手かった。

 どのキャストも舞台上での身体の使い方が上手くて、私は少し後方席から観ていたのだけど、何をしているのかわからないシーンが一つもなかったのは素晴らしいことだと思う。

 映像作品とはまた違って、舞台には舞台用のお芝居と演出があるが、これが上手い舞台は観ていて気持ちが良い。

 舞台セットは階段の使い方が好きだった。襖とプロジェクションマッピングの融合も面白い。座敷童子たちに舞台転換させるのは見事だった。

 

 今作のハイパー(薬売りが対魔の剣を抜いている状態)の演出は見応えあり。

 前作『化猫』より、薬売りがハイパーになっているときの映像演出が良かった。ハイパー状態の映像も大映しになっていて見やすいし、主演の役者も舞台上にいるし(前作は映像のみで舞台上からはけていた)。

 徳次は原作アニメでダークスキンに描かれているキャラだが、ブラックフェイス/ブラウンフェイスで出てくることもなく、それも安心した。

 ハイパーも原作のキャラデザに沿って褐色肌に見えるよう撮られてはいるが、前作同様あくまで映像効果のみ、プロジェクションマッピングでの登場だったので、こちらも良かった。人種表象とみなされる肌色の表現について演出の模索が成功している、日本において数少ない作品の一つだと思う。

 

 そして、女将(久代)と徳次がラストちゃんと生きていたのも良かった。

 堕胎それ自体は罪とされず、堕胎の選択もまた一つの人生であると肯定するセリフ(志乃と女将の会話)があったのは、今この物語を舞台化する上で必要な翻案かつ追加シーンだったと思う。

 原作アニメからの大幅追加部分の脚本に一部プロライフ思想(胎児尊重/中絶反対派)に近いものを感じたが、出産の選択とともに当然ながら中絶の選択も肯定するメッセージがラストに追加されていて安心した。

 このプロライフっぽい演出については後述する。リプロダクティブ・ヘルス&ライツは大事。

 

 座敷童子たちと幼い徳次のシーンや、座敷童子と徳次(と志乃のやや子)の対比が登場人物全員の人物像を掘り下げるのに一役買っていて、座敷童子を複数人キャスティングしたことは大正解だと思う。

 実は孤児ではなく久江の実子である(徳次はそれを知らない)という徳次の出生の秘密と、座敷童子の一人であるイチが久江の水子であるという展開については、前述した通り久江の人物像を掘り下げている。

 

 しかし座敷童子に関しては、個人的に原作アニメの描き方が好みだった。

 座敷童子の表現それ自体については好みの範疇ではあるが、イチ(舞台オリジナルキャラ)ら座敷童子たちの「おっかあ! どうして産んでくれなかったんだよ! 俺も生まれたかった!」という「堕胎/中絶」を責めるセリフが繰り返される一連のシーンについては、「堕胎/中絶」を描く上で大きな問題があると考えている。

 

 

 作品の根幹でもある「堕胎/中絶」の描き方について。

 

 舞台化にあたり尺を増やしセリフもキャラも増やしているのに、「おっかあ(母)」しかフォーカスされておらず、「ややこ(赤子)」のもう一人の親である「父親」の存在と責任が不可視化されているのは残念。

 本作の被害者たちの「生まれたかった/産みたかった」の願いが絶たれた根本の原因は間違いなく家父長制(家父たる男性が女性を交換可能な財産とみなす社会システム)にあるのだが、怒りの矛先が「堕胎した女」に向いてしまっているように観える。

 これは原作アニメからの問題点だが、今この物語を舞台版でやるならこの部分も含め上手く翻案してほしかったところ。

 

 本作が徹底して行っている胎芽/胎児を「人格化/人間化」する演出については、冒頭に書いた通りラストに「中絶を選択した人」である久江の選択もまた一つの人生であると肯定するシーン(これがあって本当に良かった)があるものの、全体的に原作アニメ以上にプロライフ極右が喜びそうな筋書きと演出になっているので、私はかなり危ういと思いながら観たし、今もそう思ってはいる。

 明言しておくと私はプロチョイス(母体の選択権を尊重)です。

 

 ラストの座敷童子たちの独白、薬売りのセリフ、志乃と久江の会話などからも伝わるように、本作は作品としてはむしろ保守思想よりもフェミニズムに親和的なものを目指しているのだろうし、そういうメッセージを込めてあるのは観ればわかるようになっているが、メッセージに対して物語とその演出に齟齬があると感じる。

 本作は「堕胎/中絶」について、「産む産まないを決める権利を奪うな」という直球の母体の権利回復を描いているはずが、それを表現するならば避けるべき表現を盛り込んでしまっている。

 男性の責任の無化、家父長制の不可視化、胎芽/胎児の過度な人格化などは、産む産まないの決定権を妊孕性のある当事者から奪うために保守あるいは極右によって使い古されてきたプロパガンダ的「演出」である。

 キャラクター化した胎芽/胎児に「生まれたい!」と主張させたり、同じくキャラクター化した水子に「どうして産んでくれなかったんだ!」と主張させる表現は、妊娠当事者に義務感を与え、中絶経験者や流産/死産経験者に罪悪感を植え付ける「演出」として機能する。これは、産まない/産めない女性を糾弾する効果や、産まない選択をする権利を狭める影響を発揮する。まさに保守が好んで使用するプロパガンダ手法の王道だ。

 フェミニズムの歴史は紡がれてきたが、それでも旧時代的思想つまりは保守/極右がまだまだ盤石なのが社会の現状である。そのため、「堕胎/中絶」に関する「演出」もまた当然ながら保守的なものが多い。

 本作はおそらく、作品のメッセージ自体は真逆であるのに、「堕胎/中絶」を深く表現しようとするが故に、これらの「演出」を複数組み合わせて使った(使ってしまった)のだろうと感じた。

 (仮に作品のメッセージがプロライフ思想であるとしても、それならラストの展開と齟齬があるので、どちらにせよ「堕胎/中絶」にまつわる物語を描く上で作品に主張のブレがあることに変わりない。)

 

 座敷童子という「口減らし」の歴史と密接な妖怪(モノノ怪)をテーマにし、「堕胎/中絶」さらに「遊郭」を題材にした作品であるが、これらのテーマや題材に付随する倫理的問題への無関心が伺えるのは事実。

 とはいえ、繰り返すが本作は最終的に「女性の選択」を肯定する物語であり、一応遠回しながら女性や子どもという社会的弱者を搾取する権力者への批判もある。

 

 原作アニメの放送から15年、現代に描き直された舞台版『モノノ怪 座敷童子』もまた面白く、真実と嘘の入り乱れる魅力的な作品だった。

 

 

 

 

 

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 以下は、原作アニメと本作舞台の座敷童子の描き方についての個人的な好みの話。オタクの一人言。(上記の文章もそう。というかこのブログ全部そう)

 原作アニメでは座敷童子による厄災が、「個人」ではなく「概念」としての「モノノ怪」であった。『モノノ怪』においてモノノ怪とは「形」と「理」と「真」によって捉えることができるモノとされている。

 あの宿に留まっていた多数の水子たちの無念(理:経緯)が、出産を固く決意した一人の妊婦の登場(真:心情)により、座敷童子(形:妖態)というモノノ怪と成り、怪異を振るうに至った……と、薬売りが退魔の剣を抜く際に詳らかにする。

 しかし、本作の座敷童子はあまりにも「個人」のままだったので、モノノ怪の設定とチグハグな気がしてしまった。

 本作では座敷童子たちがイチ・ステ・ボボ・トメ吉といったオリジナルキャラとして登場し、完全な「個人」(親も判明していて名前まである)だったので、モノノ怪(妖怪)として座敷童子という「形」で登場する意味がかなり薄れている気がした。

 前作『化猫』では、メインエピソードとして特定の子猫は登場するものの、やはり化猫という「形」で現れたモノノ怪は「個」ではなく、「斬り殺された多数の猫たちの怨念」の「総体」であった。

 どこの誰なのかまで個として明確なのだから、モノノ怪(物怪)だとしても座敷童子というより、特定の水子霊や怨念となるのではないかという気持ちもある。例をあげると、延喜3年に平安京で飢饉や疫病が蔓延したのはモノノ怪(物怪)のせいだとされているが、これは菅原道真という個人の怨霊のせいであって、「鬼」などのせいではない、というように。

 でも、これは私の個人的な好みや解釈だし、舞台オリジナルキャラの座敷童子たちも魅力的で登場した意味があったので、観終わる頃には舞台『モノノ怪 〜座敷童子〜』はそういう世界観(または設定)なんだなと納得しました。