プラトンの『饗宴』と映画


この数年、ハリウッド制作のレズビアン/ゲイ映画において、プラトンの『饗宴』の半身論(人間球体説)をテーマに据えたものをよく観るようになった気がする。‬

同性愛の肯定も、「半身を求める→自己愛へ」というLove myselfの展開も、どちらも物語として最高なんだけど、このプラトン『饗宴』の半身論(人間球体説)は問題も多いから、このテーマの作品を観るたび気になってしまう。‬

プラトン『饗宴』の人間球体説:‬

‪人間は元々、男女・女女・男男という3つの性で、2人で1人の完璧な生命体だったが、神の怒りにより2つに分けられた。よって人は半身を愛し求める。男女の完全体だった者は異性を、女女/男男の完全体だった者は同性を求めるのだ。‬

‪というもので、これは同性愛を肯定する哲学ではあるけれど、問題点も多い。‬

プラトンの人間球体説では、異性愛者(ヘテロセクシュアル)と同性愛者(ゲイ/レズビアン)は肯定できるが、男女どちらにも惹かれるバイセクシュアル(両性愛者)や、性別に関係なく惹かれるパンセクシュアル(全性愛者)を肯定できない。それどころか、異性愛者か同性愛者かの二択に人間を押し込めるバイ・バッシング(バイは気の迷い、同性愛者でも異性愛者でもない偽物)とバイ・イレージャー(バイは存在しない)という偏見を助長しかねない。‬

‪人間を同性愛者と異性愛者に二分するプラトンの人間球体説では、人間は「半身を求める者」と定義されており、この説をこの世界に適応すると、それ以外の人生を生きる人々の存在が無視されてしまう。‬

‪パートナーを持たない人、フリーセックスを楽しむ人、ポリアモリー(同意に基づく、倫理的で、かつ責任を持つ非一夫一妻制)を実践するポリアモリスト、一妻多夫・一夫多妻の形態で他者と関係を築く人、他者に恋愛感情を抱かない/必要としないアロマンスの人、他者に性的魅力を感じない/性的欲求がないアセクシュアルの人など、「半身を求める」つまり恋愛/性愛に基づく一対一のパートナー制度を築かない人々が、「人間」の定義から外れてしまう。‬

‪同性愛の肯定という面では、確かにプラトンの『饗宴』の果たしたことは大きい。しかし、『饗宴』の人間球体説を使った同性愛の肯定は、同時に異性愛/同性愛の「ふうふ(夫婦/婦婦/夫夫)」以外のセクシュアリティや人生、関係性を生きる人々の存在を否定してしまう。‬ ‬

また、この人間球体説はトランスジェンダー性分化疾患(インターセックス)を「androgynous (両性具有/雌雄合同体)」として神格化したり蔑視したりする(どちらも人間扱いしない典型)思想と紙一重だったりもする。

 

‪というわけで、現代の作品で、プラトンの『饗宴』を無邪気な「同性愛肯定」や「自己愛」の文脈でテーマとして使用されることに、私はモヤモヤしてます。‬

(2020/05/17追記…  思ったより読まれているので今更ですが、この記事を書いている私自身はパンセクシュアルです。私はパンセクシュアルで恋愛/性愛において相手の性別は関係ないという自認があるのに、プラトンの人間球体説では、私が最終的に共にいた相手/パートナーが半身とされ、その相手の性別によって私が同性愛者か異性愛者に振り分けられてしまうんですよね。そんなの私は納得いかないぞ、私はパンセクシュアルだ! というわけで、私はプラトンの人間球体説に「同性愛の肯定」という面では救われつつも、「同性愛or異性愛」という二元論の面では排除されているので、この説に並々ならぬ感情を抱いています。 以上、追記おわり)


少しネタバレになるが、

このプラトンの人間球体説と同性愛をメインテーマとする近年の映画『ハーフ・オブ・イット』と『君の名前で僕を呼んで』では、ラストで「愛とは、半身を求めることだけではない (…のではないか?)」と登場人物が気付く展開が用意されており、一応のプラトン『饗宴』批判はなされている。

しかし、これは人生は「Happy ever after (めでたし、めでたし)」の結婚ハッピーエンドではないという、これから様々な経験を重ねるであろう若者(主人公)へ自己愛(love myself, self empowerment)を促す応援歌としての意味合いが強く、『饗宴』の人間球体説の持つ問題点全てを帳消しにすることは出来ていない。‬