トーベ・ヤンソンとBisexualness

 

 私はムーミンが好きです。そこそこのムーミン・ファンであり、作者のトーベ・ヤンソン(Tove Jansson)のことを尊敬する人物として挙げることもあります。そして、『Tove』の日本公開を楽しみにしている映画好きで、文化人類学クィア理論を専門とする研究者の端くれです。

 ムーミンの作者トーベ・ヤンソンの伝記映画『Tove (トーベ)(2020)の日本公開が決定し、その話題の中で彼女の私生活、とりわけ彼女に同性のパートナーがいたことに触れる記事やツイートが今後さらに増えるでしょう。

 私は、トーベのセクシュアリティについて言及する際に決めていることがあります。

 それは、トーベのセクシュアリティを語る上で、彼女が「男性とも女性とも恋をした」人物であるという事実を排除しない、ということです。トーベは、「私は男性とも女性とも恋に落ちてきた」という言葉を残しています。

トーベの言葉

 "I always fell in love with a person. Sometimes that person was a man, and sometimes it was a woman. But the important thing was that I fell in love with that person."

 訳私は常に恋をしてきました。時にはその人が男性だったり、女性だったりしました。でも重要なのは、その人と恋に落ちたということです。

www.makingqueerhistory.com

 現在、トーベには45年間を共に過ごしたトゥーリッキという同性のパートナーがいたことが知られており、彼女と愛し合っていることを伝えるロマンティックな手記も残っています。トゥーリッキと同棲生活をし、愛し合っていることを隠さなかったトーベは、生涯を通しレズビアンや女性同士のカップルのrepresentation(表象)にも積極的でした。

 また、過去にトーベは男性と恋愛関係であったことも明らかになっており、トーベと恋仲になり婚約もした男性アトスは「ムーミン」のスナフキンのモデルになった人物であると言われています。また、アトスとの婚約中にヴィヴィカという女性と恋に落ちたこともあります。(『Tove』ではトーベと二人の関係が描かれるようです)

 そして後に、トーベはトゥーリッキという女性と恋に落ち、生涯を共に過ごしました。ちなみに、トゥーリッキは「ムーミン」に登場するトゥーティッキ(おしゃまさん)のモデルです。

 確かにトーベは同性愛の当事者であり、生涯のパートナー、トゥーリッキと過ごした後年に「私は幽霊の側に行った」(幽霊"spook/ghostとは、セクシュアル・マイノリティ女性、特にレズビアン指した当時の隠語)と記していますが、それでもトーベは自身を"レズビアン"であるとはっきり表現したことはありません。彼女は過去に自身を「完全にレズビアンであるとは思わない」と記しており、それは彼女が「幽霊の側に行った」以降も否定されていません。

Jansson never referred to herself as a lesbian, according to her niece, but used the coded expression of crossing “over to the spook side.

姪によれば、ヤンソンは彼女自身をレズビアンであるとは決して表現しなかったが、「幽霊の側に行った」という隠喩表現を使用していた。

www.huffpost.com

 

トーベの手記

 “I don’t think I’m entirely lesbian”

 訳私は自分を完全なレズビアンであるとは思わない。*1

www.moomin.com

 トーベは自身を「男性とも女性とも恋に落ちてきた」「"幽霊"の側」と表現し、特定の名称を使用してセクシュアリティを明言することはしませんでした。
 そうした理由は、トーベが自身をラベリングすること自体に抵抗があったからかもしれませんし、当時はまだバイセクシュアル(またはパンセクシュアル)という言葉が一般的ではなかったからかも知れませんし、それ以外の理由かもしれませんが、答えが明らかになることはないでしょう。ただ、事実として彼女は、男性とも女性とも恋に落ちてきたセクシュアル・マイノリティの女性であり、偉大な芸術家でした。
 長らく、トーベは「独身」または「友人と同居」と紹介されてきました。これが同性カップルへの偏見と、同性カップルを公にしまいとする社会圧力のせいであったことは明らかでしょう。彼女に同性のパートナーがいたことが頻繁に語られるようになったのは比較的近年のことで、これは喜ばしいことであると思います。

 しかし、その中で、トーベは「レズビアン」と記述されることが増えました。日本においても、既にそうした言説は個人のネットへの書き込みだけでなくメディア記事という規模にまで見られるようになっています。

 前述したように、トーベは自身のセクシュアリティについてはっきりと言及したことはなく、彼女について分かっていることは、彼女が男性とも女性とも恋をしてきたことと、彼女が45年間を共にしたパートナーが女性であったことです。

 そんなトーベを「レズビアン」とだけ表記し紹介することは、トーベのセクシュアリティの一面だけを抽出し勝手に名指すことではないか、と私は思います。他人のセクシュアリティを勝手に決めつけることは、他者のアイデンティティに土足で踏み込む行為であり、場合によってはハラスメントになり得る行為です。

Those definitions only serve to limit us—to force us to behave in ways that might not have anything to do with who we really are, or who we could be without them.

 訳そうした決めつけは、私たちが本当は何者であるか、または何者になれるのかとは関係なく、私たちを特定の振る舞いに押し込める抑圧を強めるだけです。

www.vice.com

 そして、そうした記述は、「男性とも女性とも恋に落ちてきた」トーベの歴史を、そしてそこにある彼女の"Bisexualness"(両性を愛す傾向、バイ的感性)を不可視化し排除しています。これはBi-erasure(セクシュアリティヘテロとゲイの二元論で捉えてバイをないものとして扱うこと)の再生産であると考えます。その人のセクシュアリティが何であるかを、パートナーのジェンダーによって推測し、異性愛者か同性愛者かに人間を二分する考え方には問題があります。

Bisexual erasure plays a critical role in reducing access to the resources and support opportunities bisexually oriented people so desperately need.

 訳: "バイセクシュアルの消去"は、バイセクシュアルの人々が切実に必要としている情報や支援の機会へのアクセスを減らしている大きな要因です。

(つまり、バイセクシュアルは「過渡期」扱いされ存在しないことにされがちなので、当事者が自身に関する情報を見つけられなかったり、サポートを求めることや仲間や恋愛相手と出会うことまで困難になったりし易いということ)

www.glaad.org

  「ムーミン」には、ジェンダーセクシュアリティが曖昧にされているキャラクターがたくさんいます。その人であることだけが大切だ、と示し続けたトーベの意思が、そこに反映されていることが読み取れるでしょう。トーベのパートナーであったトゥーリッキをモデルにしたキャラクター、トゥーティッキは、寒い冬にたったひとり冬眠から目覚めてしまい思い悩むムーミンに以下のようにアドバイスしました。

「わたし、オーロラのことを考えてたのよ。あれって本当にあるのか、あるように見えるだけなのか、だれも知らないのよね。ものごとってみんなとてもあいまいなのよ。まさにそのことが、わたしを安心させるのだけどもね」

「この世界には、夏や秋や春にはくらす場所をもたないものが、いろいろといるのよ。みんな、とっても内気で、すこしかわりものなの。ある種の夜のけものとか、他の人たちとはうまくつきあっていけない人とか、だれもそんなものがいるなんて、思いもしない生きものとかね。その人たちは一年じゅう、どこかにこっそりとかくれているの。そうして、あたりがひっそりとして、なにもかもが雪にうずまり、夜が長くなって、たいていのものが冬のねむりにおちたときになると、やっとでてくるのよ」

ムーミン谷の冬』(1958)

  曖昧なものの存在を肯定し、大きな枠組みに馴染めない存在や、いないものとされがちな存在を認識する。トーベの作品にはそんなメッセージが沢山含まれています。

  トーベの私生活や恋愛、そしてパートナーについて語るとき、彼女のセクシュアリティからBisexualnessを排除せず語るというのは、彼女そして彼女の作品を語る上での敬意であると私は考えます。

 

 ちなみに、ムーミンの公式サイトでは、伝記映画『Tove』についてトーベのセクシュアリティは明言していません。セクシュアリティは明言せず、トーベが恋人たちと築いた関係性のBisexualityを捉え、あらすじの中で「バイセクシュアル関係」という記述がなされています。

Tove är den okända historien om Tove Jansson – bildkonstnär, författare och ikon. Filmen koncentrerar sig på några av Toves mest formativa år i efterkrigstida Helsingfors, hennes kamp för att etablera sig som bildkonstnär och det passionerade bisexuella förhållandet som avspeglas i de internationellt älskade muminböckerna.

『トーベ』は、芸術家と文筆家そしてアイコンであるトーベ・ヤンソンの知られざる物語です。戦後のヘルシンキでのトーベの形成期を、芸術家として地位を確立するための闘いと、今なお世界中で愛される「ムーミン」の作中に反映されている情熱的なバイセクシュアル関係に焦点を当てて描いています。

www.moomin.com

 最後に、『Tove 』のトレーラーを載せておきます。

youtu.be

*1:トーベは、この手記の中で、「自分を完全なレズビアンであるとは思わない」とした後、「今後ヴィヴィカ以外の女性と恋するとは考えていない、それに男性との関係は変わらないし、今後もっと良くなっていくかもしれない。今はただ幸せでリラックスしている」と続けています。(結果として、後にトーベはヴィヴィカ以外の女性であるトゥーティッキと恋をしますが)トーベがここでも自身をラベリングしていないことは重要です。