移民の映画である『EEAAO』への感想。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(以外、EEAAO)の感想や批評が、劇場公開を終えてしばらく経つ今も日本語圏のSNSでよく流れてくる。

EEAAO』もべつに完璧な映画じゃないし、あの結末が納得いかないとか嫌な描写があるとかいうのは自由な感想だし、私も同意するものも多い。

ただ、この映画が賛にせよ批判にせよ話題になるたび、これが「移民の物語」だという前提を共有してない人が散見されることに、私は移民ルーツとして少なからずカルチャーショックを受けている。

特に、無理解から一度決別しかけた親との関係再生について、「そんな親は捨てるべき」「結局は家族で終わるのか」という感想の多さにだ。

毒親を捨てて逃げることを肯定する作品は、最高だ。それは心から理解する。しかし、この作品は「捨てない/捨てられない」人たち、その状況にいる多くの「移民」に向けた応援歌なのだ。

 

この記事は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022)と『ゴッズ・オウン・カントリー』(2017)、『卒業』(1967)の終盤の展開への言及を含みます。

 追記にて『ミラベルと魔法だらけの家』(2021)のラストにも言及しています。

 

 

EEAAO」は、家族の話であり、クィアの話でもあり、ADHDの話であり、マルチバースの話であるが、それらの根本として「(特にアジア系/華裔の) 移民の物語」という土台が存在している。

「家を捨てられない」苦悩と「それでも生きていく」選択という、多くの移民にとっての切実なリアルな実践を、一つの人生としてエンパワメントしたことに『EEAAO』という映画の意味があった。

 

公開時、主演ミシェル・ヨーのファンであり、華裔/移民ルーツかつクィアな私は、喜び勇んで観に行った。

私の感想は以下。

 

 

機能不全家族あるいは毒親との決別の物語も必要なんだけど、再起の物語もまた必要だなと思う。とくに移民家庭や移民コミュニティについては、「親族を捨てろ/コミュニティを離れろ」というアドバイスもまた非常に困難で残酷なのも事実なので、EEAAOで選択肢がいつくも示されていたのが嬉しかった。

https://twitter.com/ubuhanabusa/status/1632022371933757440?s=46&t=4tsZUPpZzK2N5GtXRmqOOw

 

家族と決別する話も、家族を再起する話も、家族と折り合いをつける話も、家族を選ぶ話も、全部必要だと思う派です。自分が家族と折り合いつけて生きてるクィアな移民だから余計にそう思うんだろうけど。

https://twitter.com/ubuhanabusa/status/1632027083470966784?s=46&t=4tsZUPpZzK2N5GtXRmqOOw

 

人間関係を完全に切り捨てたり完全に受け入れたりすることだけが「強さ」ではなくて、付かず離れずの関係でテキトーにやっていくのも別に「弱さ」ではなく、そういう生存の仕方もある意味で「強かさ」であり、様々な生き方と関係性があることを、もっと早く知りたかったし観たかったなと思うので。

https://twitter.com/ubuhanabusa/status/1632027727485337600?s=46&t=4tsZUPpZzK2N5GtXRmqOOw

 

 

私の感想はこのときから変わっていない。

家族とやっていくと決めた人、そう決めざるを得なかった移民に「家族捨てなよ」と言うのは、家族を捨てると決めた人やそう決めざるを得なかったクィアに「家族と仲直りしなよ」と言うのと、同じ残酷さがある。

 

EEAAO』のエヴリンの家庭は、戦火や政治情勢で故郷を追われた移民1世代目と、移住先で二等市民扱いされ続けている2世代目、ルーツのある国を知らずかといって生まれ育ったこの国にも馴染めない3世代目で構成されている。全員、この国のどこにも、あるいは世界のどこにも居場所がなく、「家」以外に「帰る場所/属せるコミュニティ」が無いのだということを、まず理解する必要がある。

言語が違う/文化が違う/人種が違う中で、国に帰れと言われまくるが帰る国なんて無く、住んでる国あるいは生まれ育った国でも異物扱いを受け続けるのが移民である。

(この世界に居場所がないと感じているから、他の世界へ行くというマルチバースに繋がってくるのが上手いよね)

 

移民に「家族仲が悪いなら、我慢して仲直りするより、きっぱり家族なんて捨てるべき」と言うのが、「しんどいなら唯一のコミュニティかつ生活圏を捨てて文字通り一人だけのマイノリティとしてマジョリティの中に入って行って生き抜きなさい (それが今よりしんどくてもマジョリティは基本的に誰も助けてはくれません)」と同じ意味を持つ可能性は、実際のところかなり高い。

これが人によってはどれほど残酷な言葉なのかを理解している非移民は少ないのだろう。

 

その国で生まれ育ったその国の人種・民族的マジョリティなら、あるいは、日本で生まれ育った大和民族の日本人なら、身一つで家を出て知らない土地で新たに生活を立て直して働いて生活していくことが、途轍もない苦労を伴えばできる可能性は高い。

しかし、日本で生まれ育った日本人でさえ、家業や環境によってはそれが難しいから「今いる場所を捨てて逃げる」物語だけじゃなくて「今いる場所でサバイブする」物語があり、それも共感を呼んでいる現状がある。

さらに移民は、名前が違う見た目が違うなど己が存在している時点で発現するハードルが社会のそこかしこにあり、そして弾かれる。

社会にも馴染みにくいし、マジョリティより職にもありつけないし、住居を確保することも難しいし、困窮したら福祉もマジョリティより受けられない可能性が高いし、買い物など日常生活でもマイクロアグレッションを受けまくる。

移民に「誰にも頼らず今あるネットワークやコミュニティを捨てて再び新しい土地で自分を薄っすら見下しているマジョリティたちと仕事をして一人で生きてけ」というのは、残酷だ。

それは生存バイアスやマッチョ思想であり、「死ぬ気でやれ (死んだら知らんけど)」や「この世界に居場所がないならマルチバースに行って探しなさい」と同じレベルの"アドバイス"になり得る。

「しんどいなら家族/仕事/故郷etc…を捨てなよ」と言えるのは、現状の生活の要となっているコミュニティを丸ごと捨てても自活可能な人の意見、ある種の"特権"から来る感想であることは自覚しておきたい。

EEAAO』が日本よりアメリカで共感されたのは、アメリカ製作の映画だからというのは勿論あるけど、やっぱり、移民の生活実態への認識が日本より高いからなのもあるだろう。

あれは親子の話だしクィアの話だけど、「移民の」親子の話であり「移民の」クィアの話なのだ。大前提が。移民の人生、移民の生活実態を抜きにして語れない。

 

例として『ゴッズ・オウン・カントリー』(以下、GOC)をあげる。

GOC』の主人公も大学を出たあと田舎へ戻ってゲイであることを隠して古い価値観の親を介護しながら親と折り合いをつけて親の農場を継ごうとするが、あれに「家しんどいなら捨てて都会行ってほしかった」という感想がそう多くないのは、「捨てたら生活できない」のがリアルな問題としてわかるからだろう。

地方の農家に生まれた主人公が古い価値観の親と衝突しながらも関係を再構築していく物語には、「なんだかんだ捨てられんよなそこで生きてくため模索して折り合いつけることを選ぶ人生もあるよな」と共感できて、主人公の選択も一つの人生としてアリだと捉えられる。身近な、リアルな問題だからだ。

一方、親と折り合いをつけて関係を再構築する移民の物語には「家族捨てなよ」に感想が終始してしまいがちなのは、移民そして移民の生活への理解のなさが一因にある気がする。

もし『GOC』の主人公が、両親と衝突したとき、同性の恋人の手を取って親も農業も故郷も全て捨てて都会に逃げたとしたら。それを観てこの選択が正解だと思える、またはスッキリできるのは、地方の社会とか家業とか農業とか介護とかを自分事として気にしなくていい人ではないか、と少し思う。

村社会や家業や介護、どれかに実感がある当事者も、全てを捨てて今よりは良くなると信じて一から生活を立て直そうとする主人公に感動するかもしれないし希望を感じるかもしれない。映画の中くらい、しがらみや面倒を全て捨てて遠くの地で幸せになる話を観たい気持ちも、現状が苦しい人ほどある。けれど、それを実際に実践できるのは、ほんの一部だ。

「捨てたことで起きる苦労も大きいし、捨てる罪悪感も物凄いし、捨てたいほど憎み切っているわけでもないし、捨てられないから苦しいわけで、捨てて逃げたら幸せになれるかもとか言われてもさ……」という気持ちも同時に感じるはずだろう。

 

全てを捨てて幸せになるというと、有名な映画『卒業』(1967)がある。

『卒業』では、主人公が様々な事情から愛した女性との悲恋を余儀なくされるが、その女性が他の男性と結婚することが決まると、主人公は彼女の結婚式に乗り込み、ウェディングドレスを着たままの彼女の手を取って、そのまま駆け落ちしてしまう。

駆け落ち後、笑い合っていた二人が徐々に無口になり微妙な空気が流れる車内のシーンで映画は終わる。

ハッピーエンディング……なのか? と思った観客は多かっただろう。全てを捨てて逃げて、今より良くなるか悪くなるかなんて、誰にもわからない。

「愛してるなら全てを捨てて駆け落ちしろ!」という言葉が、愛を貫くための良き応援になることもあるだろうが、荒唐無稽で無責任な放言に終わることもある。

「しんどいなら家族/親を捨てろ」も、同じだ。

 

捨てるしかないのか? それだけが家族関係に悩む者の唯一解なのか?

実際は、折り合いを付けて生きている人も多い。捨てる人も、折り合いを付けている人も、どちらも生存のための選択で、どちらも人生だ。どちらの人生も肯定に値するはずだ。

 

滅私で我慢し耐え忍ぶことが美談とされることに対して、捨てて良いのだと提唱し逃げる力をエンパワメントする物語が作られるようになった。どんどん作られるべきだ。

そして今。

捨てられないから捨てられない中で模索せざるを得ない人のための物語も、最近やっと何個か出てきた。

これが旧時代の「家族のために耐える美談」の変化系に見えてしまうのもわかるが、そのときは物語の語り手を見てほしい。『EEAAO』を物語っているのは、家族関係に苦悩しながら生きている当事者だ。移民たちだ。

捨てられんのだ私らは。まだ、どうしても捨てられん人が多いのだ。だから捨てずに、自分の人生も諦めずに、そうやって捨てずに抱えて生きていくための物語が必要なのだ。

 

とはいえ、批判も当然あると思う。

私は『EEAAO』が好きだけど、大絶賛ブッチギリ最高完璧な映画とは全く思っていない。

エヴリンがジョイにしたマイクロアグレッションや過干渉を反省して改めている(改めようとしている)ことがわかるシーンが明確に欲しかったとか、小動物への酷い扱いをギャグにしているのは笑えないとか、「大きい鼻」等がステレオタイプ表象になっていて良くないとか、クィア性と下ネタをイコールで表現し過ぎではないかとか、批判点も多々ある。

「家族は一緒にいてこそ」とも捉えられるようなラストなため、家族観が古いという批判も(それが多くの移民を取り巻く実情であり、それも一つの人生をサバイブする選択肢であると当事者に示しエンパワメントするための作品であることは上記したが)、もちろん、一利あると思っている。

この映画が移民にとって「古く」なる時が早く来れば良いのかもしれない。

でも大絶賛したい気持ちもわかるのだ。

華人/華僑/華裔、そして移民はアメリカにも日本にもいるし、だいたいどこにでもいるが、どこにでもいるのに、その辺にいる普通の私たちが主役の映画なんて今まで無かったから。

 

「家族と決別する話も、家族を再起する話も、家族と折り合いをつける話も、家族を選ぶ話も、全部必要」なのだ。

EEAAO』はそのうちの一つに過ぎない。もっと必要だ。特別優れた作品だけでなくて良い。駄作だって大量にあれば良い。非移民の、マジョリティが観てきたようなファミリームービーと同じだけ、移民のファミリームービーが観たい。

「移民の」物語が、「移民の」家族の物語が、もっと必要だ。

 

(そして、「移民の物語」を知り理解するマジョリティも、同じく必要だ。)

 

 

追記 2023/05/10

 

上記に書いていなかったが、『EEAAO』類似の作品として私は『ミラベルと魔法だらけの家(以下、ミラベル)があると思っている。

大前提として『ミラベル』が「移民の家族」の「世代間トラウマ」を描いた物語であることを認識しないことには、主人公ミラベルの置かれた状況や彼女の行動と選択を真には理解できない。

『ミラベル』も公開時に「そんな家族捨てればいいのに」という感想が多かった作品である。その感想も理解はできる (毒親との離別を肯定する物語も必要だからね)

しかし、「移民の物語」であるこの作品において、家族関係が複雑に拗れ機能不全に陥っていても、対話し相互理解を重ねて、時間をかけて折り合いを付け、「家族を捨てない」まま生きる姿を主人公ミラベルが観せたことは、とても意義があると思っている。

移民にとって「家族を捨てる」ことが社会的あるいは物理的な「死」と直結し得ることを、『ミラベル』はわかりやすく描いていた。

移民の物語であることを無視していないなら、ミラベルの家族であるマドリガル家を含むラテン系移民がコミュニティの外の世界で何をされていたか、見逃すことはないはずだ。その上で、ミラベルは「家族/コミュニティを捨てる (死を覚悟する)」べきだったのか。

ミラベルたちの家族はラテン系(Latinix)であり、異国の地で迫害から逃れてコミュニティを築いた。移民が家族を捨てる、コミュニティから去るということは、迫害されるということ、最悪の場合は死が待っているということだ (実際、ミラベルの祖父はコミュニティの外で迫害され、明らかなヘイトクライムで殺害されている)

ミラベル、つまり移民の子世代は、家族やコミュニティと衝突してしまった場合には「折り合いをつけてここにいるか」と「死ぬ(殺される)かもしれないが外に出るか」を迫られるのだ。

その上で、本人の覚悟の上の選択が「家族を捨てる」でも「家族と折り合いをつける」でも、それを咎めることなど誰にも出来はしない。

どちらもエンパワメントされるべき勇気ある決断であり、描かれるべき切実な人生の物語である。

『ミラベル』は『EEAAO』と同じく、どこにでもいる移民の子どもへ、「捨てる」のも当然アリだけど「折り合いをつけてやっていく」というあなたの選択もアリなんだよと示す、あなたの人生も重要なんだと示す映画であり、だからこそ意味があった。