学ぶプロセスは反差別の実践の第一歩

 

 

 学ぶプロセスは、反差別の実践の第一歩です。

 差別について学ぶプロセスも、反差別の実践の一つです。

 

 学ぶプロセスが尊重され難い状況について思うところがあり、この記事を書きました。

 

 

(この記事は特定の事例に向けたものではなく、この数年のSNS特にTwitter/Xにおける差別言説および、それに対する反差別活動について、私が感じたことについてまとめたものです。SNSにはフィルターバブルがあり、ここで言う「状況」とは私のTLや観測範囲でのことなので、あくまで私の経験としてお読みください)

 

 

 この社会に差別構造がある以上、そこで生きる人は私含め皆なにかしらの差別を内面化してしまっています。しかし人は知って学び変わることができるからこそ、反差別活動を行う意味があるのだと思います。

 人の再起や学ぶプロセスを肯定しないのなら、差別構造が存在し皆が何かしらの差別感情をすでに内面化してしまっているこの社会で、反差別活動は無意味ということになってしまいます。

 

 差別への指摘と批判は重要です。しかし、過去の発言や間違いを以て「あなたは差別主義者か否か」と問い詰め、学ぶプロセスさえ経させないのならば、それは時として"踏み絵"になってしまう。

 

 もちろん、差別を指摘されたら一度立ち止まって差別行為を止めることは必須であるし、自身の差別への謝罪も必須です。学んでいるときに、さらに「被差別者の教材化」という差別構造を再生産してしまう可能性についても、十分に批判と検討がされるべきです。そしてなにより、被差別者の被害は絶対に矮小化されるべきではない。

 この記事は、「被差別者の被害」と「差別だと指摘された心労」を天秤にかけるつもりは全くないです。被差別者の解放が反差別運動の一番の目的であることは、大前提です。

 

 誰もが差別への加担を速攻やめて、即時に学べて差別構造を理解し、被差別者に連帯し共に差別に抵抗する支援者(アライ:ally)になれる、という社会が理想であり、そうあって欲しいと私も思います。

 けれど、その理想の反差別活動に沿えるかというと、人は必ずしも皆そうではないし、たぶん私もそうでない(そうではなかった)。また、知って立ち止まり、学ぶプロセスや思考にどれだけの時間がかかるかも、心身の状態や環境により本当に人それぞれです。

 反差別運動は、そうした行動可能性や学ぶことの困難さの差異も含めて、万人を包括した活動であるべきです。

 

 差別だと指摘があったとき、一度でも立ち止まれなかった人は「あなたのしたことは差別じゃないですよ区別ですよ」という差別主義者側からの慰めを兼ねた手招きによってどこまでも差別言説を吸収する方へ進んでしまい、結果的に立ち止まった人(つまり共闘可能性のある人)だけが早急で完璧な身の振り方を求められている。

 ……というのが、私の観測範囲で何度か繰り返されているSNS上の反差別言説の一つの現状になっています。

 これは"踏み絵"になってしまっていて、これから学び共に立てるはずの人を心労で潰してしまっており、倫理的にも活動としても良くないです。

 

(また、ネット上という全世界に開かれた公の場で、公開の投稿で「対話」を行うというのは極めて困難であり、差別を指摘する側だけでなく指摘された側にもトロール攻撃を仕掛ける第三者が多く存在するため安全性が低く、それが「対話」として機能していて有効だと私は現在あまり思えなくなっています。ただ、差別を指摘する行為は、これは差別であるのだと不特定多数に周知する試みでもあり、指摘それ自体の有効性と必要性はあるため、私もそうした目的の指摘は適宜行っています。)

 

 社会には盤石な差別構造が複数存在していて、社会に生きる誰もがその差別を内面化している。故に、差別は誰もがしてしまう可能性があります。

 被差別当事者として声をあげる、被差別者の声に連帯する、差別への加担をやめる、差別について学ぶ、自身が何を内面化しているか内省する、学ぶ人をサポートする、声をあげやすい学びやすい環境を作る、など。これら全てが反差別の活動であり、一つでも欠けては全てが瓦解してしまう。

 差別について学び考えるプロセスを尊重することは、差別構造から脱しようとする人を肯定することなので、反差別活動の一つであるあずです。

 自身が何の差別に加担してしまっているのかや、差別構造あるいは歴史を学ぶこと、正しい知識を持つことは、一人の人間が差別への加担をやめるキッカケであり、それ自体が反差別の実践の第一歩です。

 

(「特定の属性の存在について議論する」とか「この属性への排除は差別ではなく区別」という、排斥を容認するための一方的な線引きを目的とした言説は差別の再生産なので、こうした言説は到底受けいれられないということは、ここに指摘しておきます)

 

 学ぶプロセスも反差別の実践であり、他者の教育や学べる環境作りも反差別の実践です。立ち止まり学ぶ時間が必要な人に対し、そのプロセスを許さないのは反差別活動としても健全だと言えないと私は思っています。

 差別被害を被る当事者が「今すぐの変化」を要求するのは心情としても権利としても当然ではあるので(私も自身が受けている差別についてそれを求める気持ちがあります)、非当事者である支援者こそ、他者の学ぶプロセスを肯定する、他者を教育する役割を担うべきであると考えています。

 今すぐの変化の要求と、学ぶプロセスの充実は、反差別活動の両輪だと感じているからです。

 反差別活動を行う人は、被差別当事者も非当事者も、皆どこかで差別について学んだ経験を経て、差別思想を脱し、反差別の実践に至っているのだから。

 

 差別について、単に学ぶ機会のなかった人や、学び直しをする必要のある人、これから学ぼうとしている人、学ぶ場を探している人のため、安全に学べる環境を整える、学び始めること学び続けることができる社会にしていくことも、間違いなく反差別の実践です。

 これから学ぶプロセスにある人を、精神的に追い詰めてしまったり、第三者からの攻撃や差別主義者からの"勧誘"が舞い込むような状況に置いてしまったりするのは、反差別が倫理的な実践であるという前提からしても決して望ましい状態でないと思います。

 

 もし、あなたが差別を認識したり指摘されたりしたら、まず立ち止まり、その差別について学び、自分がその差別にどう加担していたのかを理解し(そして自分が差別行為を働いていたのであれば反省して謝罪し)、連帯や支援に参加していく。

 もし、あなたが差別を指摘した側なら、そこから相手が立ち止まらず差別をやめないのなら引き続き問題を批判し、立ち止まったのならば、相手が学ぶプロセスに向かうことを尊重する。

 こうした循環を、私は反差別が社会に根付いていく過程だと考えています。

 

 他者の差別を指摘するとき、指摘した対象は「学ぶ必要のある人」です。指摘が"踏み絵"の行使ではなく、反差別活動の一環であるならば、指摘され立ち止まった相手の学ぶプロセスを尊重してください。

 学ぶプロセスの困難さや必要な時間には個人差があります。学ぶことに時間のかかる人を責めたり切り捨てたりする活動は、能力主義/成果主義、あるいはエイブリズムに陥っています。

 仮に、相手が本当に差別主義者であったとしても、教育を受ける権利は全ての人が持つ人権です。心身的に追い詰めて、相手の学びへのアクセスをより困難にするような行為は、決して倫理的ではないです。

 自らの主張が正しければ、間違っている相手のことは一切思いやらなくてもいい、一度でも差別に加担した人の苦悩は知ったことではない、という考え方は、人権を軽視したものです。

 そして、理由がどうあれ傷つく人が出てしまう場合、その傷はケアされるべきであり、ケアをする場や人が必要です。差別をめぐる活動で可能な限り傷つく人を出さない、ケアの担い手に負担を増やさない、という心がけも他者の人権を尊重するため、反差別活動には必須のものです。

 反差別はタフな人だけのものではないはずです。

 

 一人でも多くの人が差別から脱するための活動が反差別活動で、脱するための学びもまた重要なプロセスです。

 

 人は学び変われます。反差別とは学び続けることです。

 私は、学ぶことをやめない人であろうと思っています。学ぶプロセスの重要性を、反差別活動を行う人が認識していると信頼しています。そして、これから学ぼうとする人の善性を常に信じています。