セトラー・コロニアリズムを脱するために

 

【ポリタスTV3周年記念特別番組】北海道百年記念塔に見る「セトラー・コロニアリズム(入植植民地主義)」 | ポリタスTV プレミアムトーク(2023/06/04) https://politastv.zaiko.io/item/356766?_gl=1*1asxksg*_ga*MTQzMTk0NDUyMC4xNjg1ODQwMDI3*_ga_FWL9MKK8J6*MTY4NjE1NjI0My4yLjEuMTY4NjE1NjI2MS40Mi4wLjA.

こちらの番組を観ました

以下、感想など色々めちゃくちゃ長くなります。

本編の話をする前に、6/1に放送された事前番組の感想等も併せて読むとわかりやすいかもしれないので、先に貼っておく。

①番組の感想https://fedibird.com/@UbuHanabusa/110481545937302460

②フィクションでの表象について雑記https://fedibird.com/@UbuHanabusa/110481741345726130

北海道百年記念塔解体の賛否という二項対立を、無視せず解消にむけて話し会う一歩。

セトラー・コロニアリズムについても、モニュメント等の(表象)の受け取られ方についても、多種多様な切り口で語られていて、差別解消へと共に向かえるのだと示されているようでとても良かった。私も学ぶこと考えることを辞めずに共に進みたい。

盛りだくさんなトークに加えて、ラストのライブもやはり、めちゃくちゃ良い。いっぱい聴けて楽しかったな〜。いつくか好きな曲が出来たのも嬉しい。

二項対立は、マジョリティに都合の良いものだ。

差別構造それ自体が、差別を"肯定"するために様々な矛盾を抱えているので、反差別の活動もまた矛盾したものが並存せざるを得ない。しかし、マイノリティによる抵抗が抱える矛盾は許されないからだ。

ABという相矛盾するシステムや言説が、マイノリティを抑圧している場合、それらに対して生起する反A、反Bも相矛盾することになる」

「もともと支配する力に内在する矛盾が問題視されることはないが、抵抗として生じた反Aと反Bの間の『矛盾』には批判が向けられ、また反Aと反Bの間にも、ABには生じることの少ない対立が生じがちである」

(砂川秀樹 2015「多様な支配、多様な抵抗」『現代思想vol.43-16)

 

私たちはこの差別構造の解体という目的に向けて、学ぶことを辞めず、ときに矛盾し得る様々な抵抗を、連帯の手だけは離さず行っていかなくてはならないんだなと再認識した。

番組で発言された「不自由さを抱えて生きる」というのは、リアルな連帯の言葉だと思う。 

田村かのこさんがスピーチした「マジョリティ宣言」がとても良く、私の胸にも刻みたい言葉だった。

私は複数のマイノリティ属性を抱えており、いくつかの面ではマイノリティ当事者である。しかし同時に、私はそれ以外の面ではマジョリティ属性を持つ、マジョリティである。

己がマジョリティである問題に関して、常に学びと連帯の試みを絶やさぬ人間でありたい。

あと、田村さんが述べたLand acknowledgementも良かった。権利運動の場においてスピーチの前に対象へのリスペクトを明らかにするもので、私は最近こうした言葉が論文集(英語論文でした)の前書きに書かれているのを読んだことがある。

私も自分の「宣言」を持って日々更新し、書くなり話すなり公表していこう! と決意するなど。

そして、

今回のLand acknowledgementで言及されているのが「Hokkaido (北海道)」であることから、放送後、他の植民地/旧植民地のことを無視しているのではないかという声があったということを知りました。 

「ないこと」にされる痛み、「無視されること」の苦しみは、私も理解する。私も旧植民地にルーツがある華裔だ。この島、この社会において、満洲・中国に行ってきた加害が十分に語られているとは言い難いし、華人/華僑へのリスペクトもあるとは言い難い。

(なので、私もこの番組に対して「北海道がテーマとはいえ、日本のセトラー・コロニアリズム(入植植民地主義)を扱った番組なのだから、満蒙にも言及すべきだった」と言うことや、この件について何か語る人にも「満州の話をしていないならば、同じく入植され戦地にもされた満洲を無視している」と言うことができるかもしれない。しかし、北海道/アイヌというテーマで当事者らを交えて百年記念塔について話し合う場や、北海道/アイヌの権利運動のアライ/支援者に対して、マイノリティ同士の「パイの奪い合い」になり得るその"批判"を待ち混むべきかどうか。私はそれは避けたいと考えている立場だ。)

言及する必要があることも、言いたくなる気持ちも、確かにわかる。また、こうした声を無視したり、的外れな意見扱いしたりすることも、すべきでないと思っている。その声が「ないこと」にされ続けた屈辱と痛みの蓄積の末の発露であることは十分に理解している。

(もちろん、この話が植民地というだけでなく、私が当事者性を持たない北海道/アイヌと沖縄/琉球という先住民族の話であることも理解している。アイヌ琉球という先住民族がこの列島で困難な状況に置かれていることについて、連帯の意思をここに明確に示す。)

一つの差別に対して声を上げた人に対し、関連する事柄全てに言及することを求めるのは、"カウンター"になり得るのか。そして、言及を求める声を無視せず、それに至る周縁化の歴史に目を向けるために当事者と非当事者はそれぞれ何ができるか。やはり、考え続けるしかないのかもしれない。

私は、こうした声を理解することと、運動と連帯を続けることは両立できるはずだと考えている。

一つの場で、一つの番組、一人の人が、一度に全ての問題に言及することはできない。

全てに言及することは出来ない。それは事実だ。ただ、言及する努力はできる。それも事実だ。

今回の放送のテーマとスピーチの対象は北海道で、だからLand acknowledgeでは北海道に言及していた。しかし、6/1の事前放送回や今回の本編では、沖縄を始めとした他の植民地にも言及しており、決して北海道だけ日本だけの問題ではないと伝える番組構成になっていた。

この番組そして製作者・出演者の方々は、全ての問題に言及することはできていなかったとしても(全てに言及することは不可能なので当然ではある)、言及する努力は間違いなくしていたし、そこには全ての植民地被害を受けた地域と人々への敬意が表れていたと、一人の植民地ルーツとして私は感じた。

ここで、本編とは関係ない私的な話を一旦させてほしい。

100年前、関東大震災で虐殺が起きたことを知っているだろうか。知っていてくれることを願う。

地震が起き、家屋は崩れ、死傷者も多かった。そうした地震による混乱の中、「奴らが井戸に毒を入れた」というデマが流れ、そのデマを日本人は信じ、「奴ら」を狩るために行動した。そして、「奴ら」と名指しされた朝鮮人は官憲や自警団によって虐殺された。これは史実だ。

東京都知事小池百合子は、この虐殺を否定しており、犠牲者への追悼文を在職以来ずっと拒み続けている。

今年3月の新聞の見出しの例

東京新聞: 関東大震災 朝鮮人虐殺 否定論の問題点解説「過去の過ち 社会合意を」」

朝日新聞: 関東大震災朝鮮人虐殺、揺るぎない事実を否定したがるのはなぜ?

 

これは過去の話ではなく、現在にまで続く差別の話である。

この関東大震災の虐殺について話すとき、朝鮮人の虐殺は必ず言及される。当たり前である。

そして、日本人も方言話者や聾唖者が間違えられて殺されたことや、共産主義者も混乱に乗じて意図的に殺された属性の一つであることが近年は言及されるようになってきた。とても良いことだと思う。

しかしその中で、「中国人虐殺」はあまり言及されない。

中国人は「意図的に」殺された属性の一つであることが史実として判明しているのにもかかわらず。中国人はこの事件で"明確に"、「虐殺対象」だったのにもかかわらずだ。華人5,000人以上も生活を営んでいた当時の横浜中華街でさえ、震災後は華人がたった200人程しか存在しなくなるほど、虐殺と排斥の対象にされたにもかかわらずだ。

(中華街小故事 https://www.chinatown.or.jp/feature/history/past_present_01/)

なぜか。それは、中国人虐殺は隠蔽された過去があるからである。

関東大震災で虐殺が起きたとき、外交問題の激化を避けたかった日帝により、中国人虐殺は「ないこと」にされた。そのため、現在でも中国人の被害はあまり知られていない。

中国籍の犠牲者を隠蔽した史実が詳細に明かされている今井清一著の『関東大震災と中国人虐殺事件』や、生存者及び家族の証言が豊富に扱われている仁木ふみ子著の『震災下の中国人虐殺』など、ちゃんと書籍や論文もあるので気になった方は是非これを機に学んでみてほしい。

 (ちなみに、平成28年時点には、関東大震災での虐殺を「朝鮮人及び中国人の虐殺」と表記している日本政府の資料もあるhttps://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/190/syuh/s190131.htm)

私は先に述べた通り、植民地ルーツの華裔である。犠牲者全員に言及することは難しい(時間制限や文字制限のある媒体では尚のことだ)が、歴史を少しでも知ってくれる人が増えればと毎年思っている。

しかし、朝鮮人虐殺について述べている人に対して「華人を無視している/華人へのリスペクトがない」という文脈で批判することを、私はあまり良い"カウンター"であるとは思わない。

(これは私個人の意見で、もちろん異なる意見を持つ当事者もいるだろうが)

たとえば、以下のような追悼文や声明があるとする。

関東大震災で虐殺事件が起こり、そこで様々な人が殺された。虐殺を引き起こした有名なデマは井戸に毒だった。犠牲になった朝鮮の方々を追悼します。」「二度と震災時に虐殺は起こしてはならないという決意を、犠牲になった朝鮮の方々へ敬意を込めて捧げます。」

上に今書いたような発言を公の場でした人に、「華人は?」「方言話者は?」「障碍者は?」(この3つの属性は私を構成する属性でもある)と詰め寄ることに、私はあまり意味を見出せない。

ましてや、「朝鮮/韓国」がテーマの場で、他の犠牲者についても言及せよさもなくば敬意がないとは、とても言えない。

(そりゃあ、全ての犠牲者に言及するにこしたことはないが)

虐殺の史実を認め、虐殺を批判し、犠牲者を追悼する人を、「全ての被害者に言及していない/中国人を排除している」と断罪することが、行うべき"カウンター"であると私は思えない。その人とは本来ならば連帯できるし、対立すべき相手ではないからだ。

虐殺を否定し、虐殺を喜び面白がり、犠牲者を侮辱する奴らにこそ、私はカウンターを浴びせたい。事実の羅列を、質問の雨を、鋭い批判の切先を。

被害が起きていたことを知ってほしい、被害をなかったことにされたくない、誰も排除するべきではない。それは、歴史的にも個人的にも切実な要望である。

しかし、一つの場、一人の人が、全てに言及することは出来ない。その時その場で言及されなかったことが即「排除」とイコールになるわけではない。

言及されてこなかった歴史は鑑みられるべきであるし、言及してほしい気持ちへの共感と支持は私にもあるし、語らぬことが差別への加担であるというのも一理ある。だが、一つの事例から判断して相手を「言及していない = 私たちを排除している」と決めつける理由にはならない。そこは理解しておかねばと、ときにマイノリティであり、ときにマジョリティである人間として考えている。

植民地主義について反対する発言をしている人が、「満洲」についてツイートしたり言及したりしているのを見つけられなかったからといって、その人が満洲を排除しているとはならない。私も植民地主義に反対しているが、全ての国や地域に言及することは出来ていない。

だが、もちろん、全ての植民地支配に反対であり、全ての脱植民地の活動に連帯していくつもりである。

(実のところ、とある題材について「誰も満洲の被害について話していない」と愚痴をこぼしたことが私にはある。だが、これは社会や構造に向けたもので、誰かしらの個人に向けたものではない。特定の問題や差別が「ないこと」にされるのは、構造の問題だからだ。)

さて、

かなり遠回りしたが、ここで本編の話に合流する。

奇しくも、関東大震災にも記念塔が存在しているのだ。

記念塔は「燈臺」と名付けられており、銅像と台座からなる。日本兜を被り、松明を持ち、獅子を従えた、筋骨隆々とした青年の像が上部にあり、下部の台座には「不意の地震に不断の用意」という標語が記されている。

この記念塔に対する受け取り方、この記念塔をどう位置付けるかの意見も、人によって異なるだろう。私は、武装した日本人が関東大震災で何をしたのか考えると、武装した青年が英雄然と高みにいるこの像を「グロテスクだ」と感じてしまう。

同時に、

「長くこの日をしのび二度と惨害をくりかえさぬよう注意を喚起する」(https://oldroad.japan-report.com/kosyu/point/list/kosyu51)

という、この像の建てられた目的を考えると、ある意味で虐殺を含めた関東大震災の歴史を生々しく捉えているとも思える。

「彫刻は変わらない。彫刻を見る私たちが変わる」という小田原さんの言葉も思い出した。

北海道百年記念塔も、壊された後もなかったことにしてはいけない。当事者でない者はいない。過去を学び、反省し、よりよい世界にしていく責任は皆が背負っていると思う。もちろん私もその一人だ。

語り続け、考え続け、学び続けることに意味があるはずだと、番組は扉を開いた。これに続く人がたくさん出てほしい。

人が増え、場が増えると、言及されることも増える。語られるべきことは沢山ある。

そして、言葉足らずになったとき、不適切な言動をしてしまったとき、差別に加担してしまったとき(悪意がなくても差別はしてしまうものなので)、批判を受けたら立ち止まって考える人間でありたいと思う。

それと同時に、批判する側に立つ場合においても、本来連帯できる場に対立構造を持ち込んでいないか、他罰的な方向に傾いていないかを自戒したい。

反差別の運動は、人間は変われるという前提で行い、学ぶプロセスを肯定するものだ。

マユンキキさんの言った「一回もめた人を諦めない」、良い言葉だ。

長くなったが、このあたりで終わります。

(追記等で文章が増える場合は以下に足すかリンクを貼ります)