『ゴールデンカムイ』のラストとキロランケの話

ゴールデンカムイ』の最終回および最終巻の感想と、キロランケの話をしてます。

かなり長文。

 

この記事には『ゴールデンカムイ』の最終回及び最終巻のネタバレが含まれます。

 

 

 

本誌の最終回について

 

「大団円」とお出しされた『ゴールデンカムイ』の最終回を読みました。

生き残ったキャラ達は幸せそうで、よかったねと思うし、この作品が読めて良かったなとも思う。個人的に嬉しかった点としては、キロランケが1コマだけでも登場したことと、キラウㇱくんがもう一度見れたこと。

最終回は「大団円」ということで、丸く収まり希望のある(ように見えるよう描かれている)各キャラの後日談が描かれる。

日付が変わって速攻Kindleで本誌を購入して読んで、どう咀嚼していいものか分からず、キロランケについてツイートした。キロランケがいかにこの作品において必要であったか。私がこの作品に感じていた魅力の大半はキロランケに宿っていたのだと、最終回を読んで納得した。

この投稿は、私は『ゴールデンカムイ』が好きだが最終回のいくつかの描写について批判せざるを得ない、あれを「大団円」と呼ぶことは私にはできなかった、という私のひたすらに長い感想だ。

 

【大団円】(だいだんえん)

演劇や小説などの最後の場面。すべてがめでたく収まる結末についていう。 (大辞泉より)

 

最終回を読み終わった私の感想は、これは「大団円」なのか、ということだった。これを「大団円」にして良いのか。

「完璧な物語なんてない」という作者・野田サトル先生の後書きはその通りで、それは真実だろう。しかしながらフィクションは現実を生きる人間によって意図をもって作られており、またフィクションも現実に影響を及ぼすものであるので、私はこの作品を楽しんだ読者として、他者であるマイノリティ文化を娯楽を通して楽しんだ以上は、書いておきたい事がある。

ゴールデンカムイ』が歴史の流れを下敷きにした無名の者たちによる人知れぬ冒険活劇である以上、この作品は史実と共にある。

どういう完結の仕方をしたとしても、この作品が現代までの史実をベースにしている以上、最終回で何が起きても、その後もアイヌは弾圧を受けるし、今日においても北海道は和人の領土であり続け、迫害によりアイヌ文化の伝承は過酷な状況に追いやられてしまうということ(追記にて補足)だ。さらに最終回後あの作中の日本も蝦夷地や東アジアだけでなく東南アジアまで侵略を進め、大東亜共栄圏という植民地主義/軍国主義による目的のために1945年の終戦まで戦争するし、核によって敗戦したことで被害国にもなったが故に戦責に向き合わず現代まできてしまうのだ。

これを理解しつつ、私は最終回を一読者として楽しみにしていたし、この物語の行き着く先が作品としての立ち位置を決めるだろうと恐々ともしていた。

最終回、ここまで和人にとって都合の良い、加害の歴史を徹底的に漂白した展開で終わってしまうんだなという落胆の方が私には大きかった。これまで『ゴールデンカムイ』を読んできた体験や感動はなくならないし、今も好きな作品である。ただ、好きであることと全肯定することは私にとってイコールではない。終幕まで様子見していた懸念点が最終回により確信へと変わったので、私は読者としてこの作品への感想を一度きちんと書いておきたかった。

 

まず、根本的なことになってしまうが、金塊の使い道を当事者たった1人それも子ども(いくら聡明な子であるとはいえ)に決めさせたらアカンやろ、という点。

そもそもアシㇼパは金塊の正当な所有者ではないと私は思っている。アシㇼパの親ウイルクが北海道アイヌのコミュニティから盗って隠していた物なので、あれはアイヌのコミュニティのものだ。その金で購入した土地の権利書も、アシㇼパ個人のものではなく同じくアイヌのコミュニティのものだ。アシㇼパが土地をアイヌのために残すと決意しているからまだ良かったが、コミュニティの財産であるはずのものが何故か当然のように個人(子ども)の所有物として認識され、その個人の一存で用途が決まって然るべきだという雰囲気がいつの間にか形成されていたのには違和感があった。

最終回でアシㇼパは土地を遺すことに尽力したとあり、作中でそれに関わる「信頼できる人物」として伊藤博文の名が挙げられるが、これもかなり問題だと思っている。伊藤博文蝦夷地の拓殖計画の指揮者、アイヌへの同化政策を推し進めていた政府のトップに位置する人物だ。これは流石に(この作品における土方歳三の生存ifの側面と比べ物にならない程に)「フィクションだから」で通せるものではなく、侵略史の過度な美化にあたるのではないかと思う。(ちなみに伊藤博文190910月にハルビンで暗殺されるので、作中時間として権利書の交渉を行ったのはこれ以前だろう)

 

アメリカに渡った門倉とキラウㇱとマンスール。私はキラウㇱのことが好きなので、キラウㇱが楽しそうなのは嬉しかった。独り身の中年がウマの合う者同士で気ままな旅を続ける選択も良い。

しかしネイティブ・アメリカンの黄金を奪うというストーリーの映画を撮ったことは正直ショックだ。

侵略と弾圧を受けた先住民族として、不当な支配を受けた少数民族として、その苦悩と怒りを理解しているはずのキラウㇱとマンスールが「アメリカ先住民の隠した金塊を奪い合う」西部劇を製作できるものなのか。できるとすれば、それは作者によるキャラクター設定のブレである。それとも、ある属性ではマイノリティであっても、他の属性のマイノリティを差別してしまうことは起きうるのだという交差性(インターセクショナリティ)の示唆だったのか、と書いてみたがこれは明確にギャクだとわかっている。

書き手の侵略への無自覚さと認識の浅さが、小さな綻びから露呈した描写でないかと思う。

 

また、希望溢れる描かれ方をされた鯉登と月島も、果たしてこれが「大団円」なのかと私は言いたい。

賊軍として粛正されてもなお将来的に鯉登は中将にまで出世する。月島も右腕としてそれを支え続ける。これが最終回で明らかになった彼らの未来だ。

戦艦2隻を沈め、海軍陸軍の兵士から大量の死者を出し、軍としてなんの結果も手柄もなく、ただ植民地で大暴れをした第七師団。鶴見亡き今その実質的なトップである鯉登が「賊軍」とされるのは当然で、軍閥のお偉いさんである鯉登父の後ろ盾もない(モスお父さんは水死したので…)以上、鯉登はこの戦いを生き残っても粛正で殺されるのではないかと私は予想していた。しかし鯉登は月島と共に軍内で奮闘し、粛正を回避して中将になるという。中将になるということは、鯉登はこれから4050(史実から昇進スピードを考えると最短でもこの程度の年齢のはず)まで軍人として生き続けるということだ。

ということは、最終回に(1908?) 20代前半だった鯉登はこの先、中将というかなり高位の階級で、第二次世界大戦に参戦するということだ。鯉登の元ネタであろう実在の軍人(鯉登行一: 最終階級は陸軍中将・第七師団長)は、第七師団としては引き続き植民地として満州を管理し続け、第二次世界大戦で東南アジアへ侵攻した。戦死することもBC級戦犯として裁かれることもなかったが、戦後は公職追放されている。

鯉登と月島は、さらなる侵略戦争へ駆り出され続け、そして侵略に関する決定権を持つ側にまでなる。鯉登が中将になるということは、そういうことだ。

これは「大団円」なのか。鯉登と月島は地獄行き列車を生き残り鶴見から解放されたが、ここで示唆される彼らの未来は「めでたい」のか。

 

そして最後にして最大の失望、白石が東南アジアで小国を支配することを選んだオチ。

最終回、白石はアイヌの金塊を持ち逃げし、東南アジアの小島を支配するために使った。

白石のコインに書かれた文字はビルマ(ミャンマー語)だ。最終回の作中時間(19081915?)の数十年後の1942年、日本はビルマ語圏であるミャンマーを占領する。当時独立を目指していたミャンマーに支援の名目で入り込み、侵略したのである。史実として、日本は東南アジアを侵略しており、ビルマ語圏も例に漏れず日本に侵略された過去を持つ。

最終回で白石は、東南アジアを一足先に和人の支配地にしてしまった。

白石の王権がどの程度続いたのかはわからない。フィクションであるから当然だが、金塊にものを言わせた和人がビルマ語圏の小島で王様になり貨幣まで製造したという事実は存在しないことから、最終回後に起こる東南アジアでの紛争や侵略戦争という歴史の狭間で人知れず滅びたか、どこかの領土に吸収されていったということだろう。

しかし、いくらなんでも、「史実より一足早く一人の和人/日本人が東南アジアの島を侵略、支配し、個人の植民地にしましたチャンチャン」で「大団円」はない。

正直言って、あのラストをどう捉えていいものか私は一晩経ってもわからない。

白石由竹は陽気で可愛いところがあってチャランポランなようでいて仲間への情も厚くて、やらかしても憎めない、かなり好感の持てるキャラクターだった。私も白石が結構好きだ。「地獄行き列車」以降もう逃げても構わないのに最後までアシㇼパと杉元と共に戦うことを選び、列車を切り離されても走って彼らに追いつこうとし、海に沈んだ杉元を真っ先に助けようとしていたのも白石だ(本誌掲載時の描写から)。白石は「いい奴」だった。

植民地に生きることの苦しみを、アシㇼパと過ごす日々のなかで白石は学んだはずだ。侵略行為の悲惨さを、従軍で変容してしまった杉元から感じたはずだ。侵略者への揺るぎない批判を、キロランケの生き様から受け継いだはずだ。支配するより守ることを選ぶ善性を、房太郎に見せつけられたはずだ。

しかし、白石は当時弾圧されていた地域へ乗り込み王権支配を敷くことを選んだ。同じく弾圧されている地域の原住民たちの財産を横取りして。アイヌのコミュニティが侵略に抵抗するための金塊だったはずが、一人の和人によって侵略に使われてしまった。

結局のところ、どんなに「いい奴」に見えていようとも、白石由竹はどうしようもなく小賢しい犯罪者であり、ちゃっかり者の悪党でしかないのだ。という不条理なギャグとしてこの作品のオチ「あいつやりやがった!」を処理するべきなのだということはわかる。わかるが、「大団円」ではないとしか言えない。

白石にこの行為をさせる布石として、二人のキャラクターとの交流が挙げられる。キロランケと房太郎だ。白石のこの行動は、キロランケと房太郎の「(金塊を元手にして)国を作る」という願いを、白石が引き継いで代わりに最終回で成し遂げたのだという"含み"を持つ。

キロランケと房太郎は 「国を作る」 という目的をもっており、杉元はこの二人について「なんで国とか背負っちゃうんだよ」 とリアクションする(日露戦争で英雄になってさらに蝦夷地にいる杉元に、自分こそ御国の威光を背負ってる存在だという自覚はない)。また、キロランケは少数民族として、房太郎は疱瘡罹患者の親族として、「被差別者による建国」というのは同じように見えても、実質この二人の「国」への意識は真逆である。

キロランケの目的が (少数民族 / 先住民族 が自らの土地を取り戻す) 脱植民地・独立」であるのに対し、房太郎の目的は (東南アジアで自分の血族を栄えさせる) 侵略・植民地」 なので、房太郎の思想とキロランケの思想は真っ向から対立するものだ。この違いにも杉元と白石は(もしかすると作者自身も)気付いておらず、 それゆえに二人の思想の違いも作中で取り上げられることはなかった。

私はそこに違和感を抱えていたのだが、まだこの時点では物語の残り時間を知らなかったので、間違いなく「侵略」という行為がテーマの一つとして機能している以上はいつか描かれるだろうと思っていた。が、結果として、それらは描かれなかった。

このオチ、「明治期に元軍人の主人公とアイヌの少女が相棒となり、植民地である蝦夷地でアイヌの未来のために金塊を探す」という筋書きの物語の着地点がコレでいいのかというと、良くはないだろう。

ゴールデンカムイ』の物語は、アイヌと和人の「共生」をテーマの一つとしているところがあり、しかしその上で前提とされる和人によるアイヌへの侵略・弾圧・差別・同化政策が不可視化されすぎている傾向があった。作中に「旧土人法」に基づく弾圧と同化政策は描かれず、和人社会へ批判が突きつけられることもない。

未来での「共生」を掲げる前に、現時点でまず「反侵略」というメッセージを盛り込んでほしい、いうのは最終回を前にした私の感想だったが、これも描かれることはなかった。

 

ここでキロランケの話をする。

(交流のあるフォロワーはとっくに知っていると思うけど)この作品における私の最推しはキロランケである。押しも押されぬ唯一無二である。好きな理由は山ほどある(そして歪んでいると思う部分も山ほどある)が、それはここでは置いておく。

私が言いたいのは、『ゴールデンカムイ』に「政治的なバランス感覚」と呼べるものが存在していたのならば、それはキロランケというキャラクターが担っていたのではないかということだ。一瞬しかし確かに描写された、彼が侵略者に向ける揺るぎない批判の眼差しと、その明確な脱植民地主義の思想が、作中で描かれる様々な主義思想の偏りをギリギリの危うさで保っていたのではないか、と。

キロランケが樺太先遣隊(軍人の鯉登・月島、元軍人の谷垣)に鎮圧された時点で、作中から「マイノリティによる徹底的な抵抗」は姿を消した。

樺太・ロシア編の後、メインとなるのは旧幕府vs日帝軍による金塊争奪戦であり、アイヌの当事者は和人と共生するにあたって、「敵の敵は味方」の論理で旧幕府側と組む。蝦夷地や満州さらには露西亜を含めた北部侵略の野望を隠しもしない日帝(鶴見中尉が率いる大七師団)よりも、アイヌ自治権を認めてくれそうな、マシな方である旧幕府残党(土方組)と組むことを選んだに過ぎない。旧幕府の人間もまた蝦夷地開拓、つまり蝦夷地への侵攻を行った侵略者なのだが、これ以降「武士道」という精神性を担保に旧幕府残党はアイヌの味方として描かれ始める(物語としての熱さは認めるが、正直この描写にも和人の侵略史の漂白という問題点があると思う)

私の個人的な趣味として(推しキャラは死によって完成すると考えるオタクなので)、キロランケが死んだとき私はそれはもう興奮した。展開も衝撃的で面白く、弔いのくだりや過去回想は涙を誘った。しかし、この作品が先住民族の文化と共生をテーマにしていることから、作品の構成要素としてキロランケは失われるべきではなかったと今にして深く思う。

作中で唯一「権利闘争」の重要性を説いていたキロランケが離脱したのは、マイノリティの表象として痛手すぎた。革命で独裁者を降し、宗主国への抵抗に人生を捧げ、弾圧される植民地の先住民族/少数民族で独立し自治区を形成しようとし、植民地民による露帝/日帝への蜂起も肯定したキロランケは、マイノリティとの「共生」を描く上で避けては通れないもう一つの要素「権利運動」をただ一人で体現していたのに。

 

ゴールデンカムイ』は本当に面白くて、好きな作品であることは最終回を読んだ今も変わりない。「大団円」を迎えられたキャラクター達には祝福を送りたい。

けれども、植民地主義/軍国主義をここまで物語の中枢に取り入れながらそれを否定しきれていない危うさを孕んだ物語であることも事実である。最終回の「アイヌと和人の努力によって」というナレーション文からも分かるように、侵略者である和人の加害への言及は最後まで行われなかった。和人による和人のための反省なき「共生」の夢物語であるという側面を、この作品は少なからず内包している。

一人の作者が一つの作品で全てを描くことは無理なので、こうした批判点は作者さん自身も多くの読者も折込済みだろう。だからこそ、人気作として今後も読まれる上で、コンテンツとして引き続き展開する上で、発信者はもちろん消費者も含めこの作品を通して「軍国主義/植民地主義を翼賛しない」ために気をつけなければならないと私は思う。

 

[※もしこれを読んでいるあなたや他の個人が軍国主義/植民地主義者であるなら、それは内心の自由と思想の自由があるので、差別発言(これは他者の人権を侵害するので表現の自由に含まれないよ)を垂れ流さない限りその個人の好きに行動なり発言なりすべきというのは前提とします。しかし、同じく主義思想への批判も当然あり(他の思想の人にも権利と自由があり批判/批評は表現の自由の一つなので)、私はお察しの通り反軍国主義/植民地主義を標榜しているので、この文章は私の感想のため(私の思想に基づき)軍国主義/植民地主義とそれに伴う歴史を二度と盛勢させてはいけないものとして書いてますよ。]

 

白石が金塊をくすねて東南アジアで王政を敷いてしまったことが本当にショックだったのだけど、そもそも白石は最初から「網走に投獄されるほどの」コソ泥逃亡犯であり、目的のために手段を選ばないスレた怖い一面も作中で描かれている(クワガタのくだりとかね)から、金塊を持ち逃げしたことは「結局悪人やんけ白石お前〜!」で納得できはする(杉元も両手いっぱいの金塊をくすねていたし)。やっていいか、それをギャクにしていいか、とは別として。もし白石が無人島を正式に購入していて漂流者や難民といったマイノリティを受け入れているなら、露悪な王様生活の道楽の中に彼の善性を想像する余地のある描写がされるなら、あのオチをまだ少しは受け入れられるかもしれないと思うなどした。

最終回掲載時点では、白石王国の秘話は描かれておらず、加筆があるかも謎、秘話が明かされるかも謎だったので、私は白石を「侵略者」に近しいとみなしていた。そのため、このまま侵略者オチで終わらせないでくれ、あの戦いを見届けた白石の「国」の形がどうか「侵略」でありませんようにと考えていた。

 

あと、この記事の冒頭に書いた「最終回を読んだ直後にしたキロランケについてのツイート」はコレ(https://twitter.com/UbuHanabusa/status/1519338907594522625?s=20&t=OzRrnzAs0Mqr3eSGncGluQ)

です。一応貼っておきますね。

 

 

 

最終巻について

 

ゴカムは加筆修正の多さが有名であり、単行本になってようやく完結するタイプの漫画なので、最終回を読んだ後も最終巻の発売まで最終的な判断はしていなかった。

最終巻を読んでみて、一つの物語として間違いなく面白かった。

本誌掲載時に問題があると指摘した部分(とくに最終回)のいくつかは手直しされていて、地の文での解説も増えていた。懸念していた白石の「王国」も、移民を募ったもので明確な「侵略」ではないと明かされたので、まだ良かった。

しかし、書き下ろしのエピローグで再び魅力的な、だからこそ危うい偽史が足されていた……

鶴見中尉が生存しており、最終回後も暗躍し、間接的に護国を成し遂げていたというエピローグである。

鶴見中尉の「満洲をアヘン畑にする」という野望それ自体は、分かりやすく邪悪で、作中でも否定されていた。しかし、第七師団という「北鎮」のため部隊の存在は否定されることもなく引き継がれ、さらには第七師団長になることが「大団円」の一つとして描写された。
第七師団は、日帝が北辺を統治するために北海道に置いた、開拓と防衛のための屯田兵を主体とする軍隊だ。第七師団が鎮める北辺には、東北や北海道はもちろん、当時日帝の傀儡国家であった満洲も含まれている。
第七師団が存在し続け、第七師団長になることが「大団円」として描かれるとき、そこには間接的とはいえ植民地主義の肯定がある。

そして、この最終巻での鶴見中尉のエピローグである。

最終巻では結局、満洲が鶴見中尉の暗躍の地として利用されている。危険な帝国主義者かつ植民地主義の思想の体現者である鶴見中尉の「暗躍」に、「護国」という英雄視まで加えて。

 

私にとってゴカムは、面白く読んでいた作品であり好きな作品であることも変わらないんだけど、北海道だけでなく満州への視線が植民地主義を脱していない作品であるという評価である。

思うところはあれど、リアルタイムでゴカムを読めて本当に良かったのは本心です。今後も私は延々とキロランケの話はすると思います。

 

 

 

 

 

 

この記事は以下のツイートに大幅に加筆修正を加えたものです。

https://twitter.com/ubuhanabusa/status/1519672715892097024?s=46&t=4tsZUPpZzK2N5GtXRmqOOw