『名もなき野良犬の輪舞 (不汗党)』の宗教的考察

名もなき野良犬の輪舞』(불한당:나쁜 놈들의 세상)(不汗党)


(ネタバレ有)



ヤクザそして刑務所という世界において神のようであったとされるハン・ジュホの呼吸を奪ったのがヒョンス。2人は最初と最後で「人間と神」という立場が入れ替わる。

ハン・ジュホは刑務所で「まるで神のようであった」と言われる。全てをなすがままにしていたと。

この説明を行うのは敬虔なクリスチャンの男で、いかにハン・ジュホが神の如く振舞っていたかを示す食堂のシーンでは、明らかにハンをキリストの位置に据えた「最後の晩餐」(ダ・ヴィンチ作)を模した画面構成が行われる。

キリスト教において、呼吸は様々な意味を持つ。キリスト教圏において日常的に使用される「God's breath you あなたに神のご加護があらんことを」からも分かるように、神の愛(ご加護)はその呼吸によって与えられるとされる。

生きることはtake a breath(呼吸する)と称され、殺すことはsteal breath(呼吸を奪う)とも言われる。

神は人間を「命の息」を吹き込んで創り上げ、そしてその人間の「命の息」を引き取ることができるのも神のみなのだ。だから「人間同士の殺し合い」や「自殺/自死」は禁忌とされている。

また、神は全てを見通せる目を持っており、人は他人や自分自身すらを欺けても、この「神の目」を欺くことは出来ないとされる。神に見られている(watch)と意識することで、良い事を行い悪しき事を自制することができるのだ。

そしてハンは「人を信じるな、状況を信じろ (사람이 아닌, 상황을 믿어라)」を信条としている。ハンを教祖とするなら、この言葉は教義だ。

キリスト教において状況(상황 situation)は神が考えたものであり、中には予定説として「人生の全て(死後すら)は最初から決まっている」と考える人もいる。逆境を与えるのは乗り越えさせるためで、相応しい職業に就くことも良く生きるための行いであると。ハンは状況を信じて行動することでその場その場の人生を切り開き、生き残ってきた。

物語の最初、まさにハン・ジュホは畏怖される神であった。他人を殺すこと(steal breath)さえ、相手の目を見た(watch)ままやってしまえるほど。そして己を畏怖する者にも、誰にも愛を与えない。状況(situation)のみを司る、奪うだけの神だった。

ヒョンスは、説明がてらハン・ジュホを神になぞらえたクリスチャンの男に、自分はキリスト教を「信じていない」と言う。「俺は無宗教だ」とも。

しかし後に母の死と葬儀をきっかけにしてハンに救いを見い出し、物語中盤には「俺は兄貴を信じる」と本人に直接告げるに至る。まるで信仰告白だ。ヒョンスは神たるハンの信者となる。

神は自らに似せてアダムを創り、そしてアダムに似せてイヴを創った。

ハンは自らが関わり、ヒョンスという子分を手に入れる。ハンが創り上げたハンの信者。ハンの教義を教えて育て、そして素直なヒョンスから「ヤクザとしてのヒョンス」も創り上げる。ヒョンスは神たるハンの「アダムとイヴ」だ。

自分たちにとって悪しき者を一層し、ヤクザとして望む世界を手に入れることに成功したハン。船の上で行われる下剋上の殺戮は、ハンにとってのノアの箱船の大洪水だろう。

終盤、ハンが母を殺害していたことを知ったヒョンスは、ハンを騙して「ハンの全てが始まった場所」へ呼び出す。

このとき、ハンはヒョンスの言う「何者かがヒョンスの秘密(潜入捜査官であること)を漏らした」という言葉を信じ、自身の兄弟分であるビョンガプを殴り殺してしまう。

ハンはヒョンスを信じた。

そして、自らの兄弟分を殴り殺す。最期の瞬間に「目を見る」ことをせず、うつ伏せに崩れ落ちるビョンガプの頭部を叩き潰す。

キリスト教において、人類の「最初の殺人」を犯したのはカインだ。カインは弟のアベルを殴り殺した。アダムとイヴの子であるカインは、神の祝福を受けた弟のアベルを恨み、頭部を殴り殺す。

ハンは神だった。自分の「アダムとイヴ」であるヒョンスを作り、ヒョンスをヤクザにし(楽園追放)、ノアの箱船で望む世界を作った。

しかし、弟分のビョンガプを良いポジションに据えてやった頃にはもう、ヒョンスを信じてしまっていた。ヒョンスを信じ、弟分を恨む、ただの人間になっていた。

ハンは全てを知ってもヒョンスを殺せなかった。それどころか、ヒョンスを襲う警官の喉を打ち抜きヒョンスを守る。

キリスト教圏では、喉仏のことを「アダムの林檎」と言う。アダムが神の目を盗んで知識の林檎を食べたとき、神に咎められて慌てて飲み込んだせいで喉に林檎がつっかえ、それ以後その証が人間の男に残り続けているという伝承だ。

ハンはヒョンスの目の前で「アダムの林檎」を消し去った。ヒョンスはそれにより、かつて神だった男ハンから解放されるのだ。

ハンはヒョンスを「全ての始まりの場所」に残し、手負いながらどこかへ歩きだす。車を使わず、足を引きずりながらどこかへ向かう。さながら全ての罪を背負って歩くキリストの最期のようである。

そこをチョン主任に轢かれ、ヒョンスの母のように道に突っ伏す。

遅れて出てきたヒョンスは薬を押収中のチョン主任を「目を見て」撃ち殺し、ハンをも手にかける。

ハンの「全ての始まりの場所」は、つまりキリストが誕生した質素な厩だ。厩で誕生したキリストはそこから「出世」し、信仰され、信徒の裏切りによって一度死に、そして生き返り(reborn)、後に神と一体視されるまでになる。

ハンの「始まりの場所」そして死地から生まれ直した(reborn)のは、ヒョンスだった。

ハンはもはや神ではない。ヒョンスを信じ愛する人間になってしまった。

ヒョンスはハンの目を見つめ(watch)ながら呼吸を奪う(steal breath)。ハンは最期にヒョンスに呼吸(breath)という愛を与えた。同時に、ヒョンスはハンの神になったのだ。

死の間際にハンはヒョンスに「俺のようにはなるな」と言葉を残す。俺のように誰かを信じ愛してしまうな、という意味だ。ヒョンスはそれに頷いた。

ヒョンスはもう誰も信じ愛さないだろう。ヒョンスの最初で最後の「神」はハンなのだ。

そして、ハンにとっての最初で最後の「神」はヒョンスだった。

神であるハン・ジュホと、人間だったヒョンス。ラストにはその関係が見事に入れ代わり、ヒョンスが神に、ハンが人間になる。しかし、ただ入れ代わったのではない。教義を同じくするヒョンスはかつての神と「一体」になった。

それを象徴するように、冒頭のハンと同じようにオープンカーの運転席に寝そべるヒョンスのシーンで映画はラストを迎える。

キリスト教において、生まれ直す(reborn)ことは「悔い改め」ることによって信仰心に立ち返り新たに生き直すことでもある。それにより「天の国に近づく」とされる。天の国とは神のいる場所、空高くにある神の国だ。

ラストではハンと同じようにオープンカーの運転席に寝そべるヒョンスだが、その瞳は冒頭のハン(サングラスをかけていた)とは異なり、はっきりと空に向けられている。

神の子、そして神と一体となったヒョンスと、ヒョンスが信じた神ハン・ジュホの距離は、どこまでも近くてどこまでも遠いのだと思われるラストシーンだった。

ミステリードラマ映画としてもブロマンス任侠映画としても名作だし、宗教的暗喩がとても多くて、考えれば考えるだけ胸が締め付けられる映画だった。

「呼吸を奪う」って宗教的暗喩でもあるけど、おそらく接吻の意味も多分に含んでるよね。あれは2人にとって人生で最初で最後の愛の交わりなんだと思う。



※私のツイート(https://twitter.com/ubuhanabusa/status/1004643456164061184?s=21)をブログに載せたものです。