『シェイプ ・オブ・ウォーター』考察と感想

シェイプ・オブ・ウォーター』 (The Shape of Water)


(ネタバレ有)


 

●ストリックランド(マイケル・シャノン)の指について


彼が失うのは左手の薬指と小指で、どちらも愛に関係する指。彼は研究室で指を失うが一度はイライザが見つけてくれて、家族や助手も指の治癒を気にかけてくれる

しかしストリックランドはその指を腐らせてしまう。そればかりか、その指をもぎ取って、ゼルダを脅迫する道具にしてしまう。ストリックランドには何度も指を再生するチャンスがあったが、鎮痛剤にのめり込み痛みを打ち消して、最終的に完全に指をダメにしてしまう。赤い糸の結ばれた小指と、結婚指輪をはめるはずの薬指を。

この指の描写は、彼が愛を失った悲しいモンスターに化してしまうまでのメタファーだと思う。

ストリックランドは最初に指を失ったとき、まるで心臓から血を流しているかのような登場の仕方をする。自分の価値観を揺さぶる生物との対面で、己の人間性としての「愛」を試され、ひどく傷ついたかのように。

イライザは「彼を救わないのなら私たちも人間じゃない」という言葉(手話)の中で、何度も自分の胸を叩き、胸を指差す。「私」は「心」であり、「心」は「愛」だった。

水生生物の"彼"はイライザと出会い、割れた卵を見て「egg」という手話を覚える。卵から何かが孵るみたいに、"彼"とイライザの間に愛が芽生えた瞬間だった。

ストリックランドは指を負傷した後、上司から「(親指と人差し指と中指の)三本あればなんとかなる」と言われる。そう、なんとかなったのだ、その指さえあれば、手話で「egg」ができる。ストリックランドもイライザと共に、"彼"と共に、「egg」から愛を生み出せたはずだったのに。

ラスト、心臓を撃たれて傷ついたはずなのに再生して立ち向かってきた"彼"に、ストリックランドは「おまえは神なのか…?」と問う。冒頭で「神は俺に似てるんだ」と偉そうに述べていたときと異なり、"彼"に神の姿を見い出す。傷つかない、失敗しない、完璧な神、それはストリックランドが求めた「俺の理想の男像」だった。ストリックランドが本質的に「俺たち人間は傷つくときだってあるものなんだ」と知っていたからこそ発された言葉だと思う。ストリックランドは傷ついてよかった、怒ってよかった、自分を「まともな男」という形に押し込めて傷つけた社会に。なのに最後まで怒りの矛先を他の弱者に向けてしまった。

喉を搔き切られ、イライザと同じく声を発っせなくなったストリックランドは、ひとり硬い地面に転がり首の傷を押さえる。対してイライザは水中(水=愛)で、首の傷は"彼"の手によってエラとなり、彼女は自分の生きる世界へと誘われる。イライザの手も、"彼"の手も、ストリックランドの手も、声がなくても同じように「egg」を伝えられる手だったのに、こうも違う。二人の手にあってストリックランドの手になかったものは「愛」だったな…。

せめて、ストリックランドがゼルダの家に捨て置いていった指が、その愛が、ゼルダの家庭が再び愛を育む芽となればいいのになと思う。




●「声」について


この作品で声を持たないということは、社会に対して声を上げる力がない弱者、マイノリティであるということの可視化かな、と思う。イライザは唖者、"彼"は人語が話せない、他の登場人物も…

ゼルダは夫と何年もまともに話せておらず、家庭に会話がない。ジャイルズは話し相手がおらず、意中の男性からは「話しやすい」と言われた直後にコミュニケーションを拒否される。ホフステトラー博士は母語(ロシア語)を偽って生活しており、母語でも本心を隠して話すことしか出来ない。

それだけでなく、イライザの住むアパートの階下にある映画館の館長も、客を呼び込む力がないため映画館はいつもガラガラに空いている。掃除係の女性たちも、いつもタイムカードの列に横入りするゼルダとイライザへの文句があるが、上に報告したって聞き入れてもらえないため横入りは日常化している。パイ屋の店員の男性も、このチェーンのフランチャイズ店で働く際に出身地の訛りを矯正されている。ストリックランドのオフィスにいる秘書の女性は、ストリックランドへの用があるとき以外は何も話さず、ただタイプライターを叩いている。

みんな「声」を持っていない。社会や、一番聞いてほしい相手に、自分の意見を伝えるための声を。

ストリックランドはいつも怒鳴り散らしていて、聞いてもいないのにウンチクをベラベラと語り、他人に対して失礼な言葉や差別的な言葉を平気で放つ。子供の「ねぇパパ聞いてよ」にもなかなか耳を貸さず、セックス中の妻の声も聞かない。声を持たないイライザに脅迫のように性関係を迫り、声を持たない"彼"を拷問し、母語を偽るスパイであるホフステトラー博士を目の敵にする。

ストリックランドはこの作品で唯一の「声の大きい強者であるマジョリティ」に見えた。

しかしストリックランドも、「いつまで"まともな男"であると証明し続ければいいのですか」という初めて吐露した男性社会への苦しみを上司にバカにされ、存在を否定されてしまう。

最初から、ストリックランドには「自分の声」がない。命令で動き、知識は聖書や神話の丸覚えで、価値観も「男とはこういうものだ」という社会の偏見が刷り込まれたもので、家も仕事の都合で住んでいるもので、自分へのご褒美で買う車すら「成功者のための車ですよ」とセールスされた途端に嫌がっていた緑(ティール)の車を買ってしまうし、自分の腐りゆく指だって本当は痛いだろうに「大丈夫だろ」と上司から言われたがために鎮痛剤をガリガリ噛み砕いて治療を行わない。ストリックランドには「自分の声」がない。

そしてラスト、"彼"によって喉を切り裂かれて、ストリックランドもイライザと同じく物理的に声を出せなくなる。ストリックランドはそのまま首の傷により絶命するが、イライザの首の傷はエラに変わり、新しい水中という愛に満ちた世界で彼女は愛する人と共に生きていく。

強者も、ある日突然に弱者になる。社会に声を聞き入れてもらえない弱者に。あれだけ強者であったストリックランドも、指を失い、仕事で失敗し、声を失い、社会的どころか本当に死んでしまう。自分の恵まれた状況にあぐらをかいていたストリックランドは、その状況が壊れた途端に「自分の声を持たない者」になってしまう。

同じエリートであるホフステトラー博士は、最後に「自分の声」を信じ、"彼"を逃す選択をする。ストリックランドもホフステトラー博士も二人とも死んでしまったが、ホフステトラー博士は最期の瞬間までまるで勝ち誇ったように笑いながら、名もなき者たちが成し遂げた行為を述べながら、死んでいく。対して、ストリックランドは死の間際に何も言えなった。まるで陸上で、自分の内から溢れる血液で溺れるように死んでいく。

イライザは唖者だが、確かに強く自分の声を持っていた。ゼルダも、ジャイルズも、ホフステトラー博士も、自分の声を持ち、そしてそれに素直になることを選んだ。

声を上げる力がなくても「自分の声を持つ者」と、声を上げる力があるが「他人(社会)の声の腹話術」で生きる者、水中という音の響かない世界では「他人の声」は自分まで届いて来ない。「自分の声」で話さねば、誰とも繋がれない。イライザは生きられる、水中でも、自分の声があるから。ジャイルズとゼルダも、降りしきる雨の中、水の中で、しっかりと寄り添った。

ギレルモ・デル・トロ監督は、様々に変幻自在に形を変える水は「愛」と同じだと言っていた。愛はまさに自分の内から溢れる「自分の声」だ。

いつか水中で、愛に満ちた世界で、誰かと、愛する人たちと関係を築こう。自分の声で。私はそんな強いメッセージを感じた。




※私のツイート(https://twitter.com/ubuhanabusa/status/970724791094149120?s=21)(https://twitter.com/ubuhanabusa/status/971302629153308675?s=21)をブログに載せ直したものです