『カード・カウンター』の感想と考察。

『カード・カウンター』の感想や考察など。

 

この記事は『カード・カウンター』のネタバレを含みます。

 

 

 

タイトル通り主人公テルはカード・カウンティングの名手だけど、人生においては徹底してあらゆるカードを忘れまくり負けまくっているのが皮肉だなと思った。

 

主人公テルは過去にアブグレイブ刑務所で勤務しており、収容者に対して非人道的な拷問を行っていた前科がある。収容者の口を割らせてテロを防ぐという大義名分のもと上司に焚き付けられていたとはいえ、拷問は許されるものではなく、そしてテルが拷問に慣れて楽しむまでになっていた様子も作中で明らかにされる。

テルは、従うべきでないルールに従ったが故に取り返しのつかない過ちを犯していて、その贖罪のために「質素な生活」と「忘れないこと」に努めているが、それが過去のトラウマに起因するOCDと結びつき「禁欲」と「記憶」をルール化していて、皮肉にもテルは今もなおルールに縛られている。

部屋で家具を全てシーツで包んで縛ってしまうのとか、いかにもフィクション的なOCDの症状だなと思う。はたからみたら意味不明だけど、自分にとっては破り難い強迫ルールがある。(テルは明らかにトラウマ起因のOCDだろうと思って観ていたら、英語レビューにはやはり「OCD」の語が散見された。)

そして、テルにとって賭博は自罰の一つであると同時に、「ルールを守っていれば報われる」という救いの場でもあるので、テルは生活も対人関係も全てをギャンブルの「勝ち負け」で捉えていて、記憶して勝ち禁欲に努める一連の行為を贖罪だと誤認している。

だから、自分の過去に関係する被害者の一人であるカークに対しても、カークを助けたいという動機は贖罪なのに、カークに借金を返して大学へ行ける良い人生をプレゼントするという「手の内」を隠すし、脅迫でもってねじ伏せて同意させ「勝とう」とする。

そして、テルが日頃から拷問用具を持ち歩いていた(カークに勝つための脅しでも使われていた)という描写から、テルにはずっと「拷問/暴力」というカードが手元にあり続けていたことが明かされる。

テルはアブグレイブ刑務所で勤務していたとき以来、このカードを持ち続けていた。このカードを切ってしまった過去を悔いて贖罪をしている間でさえ、このカードを捨てずに持ち続けていた。ここで、テルが完全に壊れてしまっていることが示唆される。

もとより、「小さく賭けて小さく勝つ」「目立たない」「匿名でいる」というテルのモットーも違和感があったのだ。

これらのテルのモットーは堅実なようでいて、「罰されない」ための思考だ。収容所でテルは、捕虜の拷問を積極的に従い、そして裁かれ、顔写真が流出し、名前も知れ渡った。テルのモットーは、己の過去の加害の反省よりも、バレずに上手くやれていればという保身の後悔から生まれているように思える。

テルは、自分の行った加害の贖罪をしたいのも事実だろうが、被害者意識が大きくあるのも事実。壊れた精神はこの二つをない混ぜにした強固なルールを作り出し、過去の精算を願う者にとってこの上なく魅力的な行為であるギャンブルにテルを導いた。

テルが行っているのはいつしか贖罪ではなくなり、一時的な救いを求めるだけの変質的なギャンブルに成り果てている。

テルは反省なき贖罪のために「禁欲」と「記憶」を絶えず行い、それが正しいことをギャンブルで「勝つ」ことで確認する。だから、それをカークにも行う。カークにも勝ったので、テルの中ではカークへの贖罪は果たされた。

明確に一人の被害者である若者を救ったという意識は、テルにとって過去の罪に一区切りつけるキッカケとなったようで、テルは贖罪から解放され、禁欲をやめてラ・リンダへ手を伸ばす。

でも、当然これはギャンブルではない。さらにテルはカークの手元に「復讐」という切り札があることを「忘れていた」。

なので、贖罪は果たされない。テルのルールもギャンブルも終わらない。

カークの死により、テルはカークを殺めたゴードに復讐しに行く。カークが始め、そして負けた「復讐」を代わりに終わらせにいく。復讐というギャンブルで勝ちに行く。

ゴードとの対決も、何が起きたのかは映されていないが、「(拷問を)再現しよう」というセリフと、部屋に入ってからの二人の叫び声、部屋から出てきたテルの様子から観て、どちらかが死ぬまで交互に拷問をやり合ったのだろうなと想像が付く。

ここでもテルがギャンブルの手法でゴードに対峙していたことが分かる。お互いに交互に攻撃し合うのだ。どちらかがバーストするまで。

テルは勝った。だから通報し自首することで復讐を自ら終わらせる。

テルはアブグレイブ刑務所で収容者を拷問していたという重犯罪の前歴があり、そこに加えて今回の殺人罪なので、州にもよるが死刑でなくとも無期懲役か、数十年の刑期か、生きている間に出所することは叶わないだろう。

刑務所という罪を償い続ける場所を終の住処とすることで、テルの自発的な自罰と贖罪は終わった。

元々、全てはテル自身の後悔と贖罪意識から始まったことで、テルは自分に相応しい居場所を刑務所だと認識しているようなので、長かったテルの償いがここで終わりを迎えるのは納得感がある。

しかしまた、テルには誤算があった。

ラ・リンダが面会に来たことで、テルは自分の場に「暴力」というカード以外があったこと、復讐以外の選択肢があったことを知る。テルはまた「忘れていた」。

面会に来たラ・リンダを見つめたときの、テルの諦めたような自嘲気味な微笑み。それは、自分がまたしても従うべきでないルールに従ってしまったが故に過ちを犯したことへの気づきと、賭けるべきでないゲームに賭けてしまったという気づきかもしれない。

場に出たカードを全て記憶して勝負どころを見極め勝ち続ける無敗のカード・カウンターが、人生では沢山のものを見落とし続け、場にあるカードを忘れ続け、切るべきカードを切れず、捨てるべきカードを捨てず、勝負どころを間違い続ける、愚かな男でしかなかったという事実。

テルがラ・リンダとガラス越しに指先を合わせるラストシーンは、最も求めていた愛ある人生という勝利のカード、あるいは救いが、二度と手元にやってこないことを残酷に映しているようだった。

私は本作わりと好きなのだけど、テルの弱者男性としての苦しみや加害者としての苦しみを描くために、残酷な救いの象徴となる「ありえたかもしれない人生」のカードとしてラ・リンダが描かれているので、ラ・リンダがテルにとってかなり都合良い女性キャラになっているのは古臭いなと思う。

 

また、主人公の偽名について。

主人公はウィリアム・テルと名乗っているのだけど、本名はビルという。

主人公が名乗る名前が「ウィリアム・テル」という暴政を行う権力者に従わず反旗を翻した英雄の名前なのも、主人公が本心では「あのとき従わずに反抗すべきだった」と理解しているからだと思う。

贖罪生活でわざわざこの偽名を名乗っているのは意図的だろう。暴政に加担して加害した前科者が、成り得たかもしれない「暴政に反抗した英雄」の名前を被って生きるのは、それ自体が捻れた自罰として働いている。

でも、テルは従って収容者を拷問したし、今も自分の勝利に囚われたルールに従い続けているし、捨てるべき「暴力」のカードを捨てられないし、選ぶべきラ・リンダというカードを選べていない。

歪なシステムからトカゲの尻尾切りで弾き出された落第者であるテル(ビル)を通して、男性中心/アメリカ中心/全体主義/競争主義的な、勝つことだけを良しとする社会に一石投じようとする寓話なんだなと感じた。

トキシック・マスキュリニティ批判を含んでいるのに、その反省の先にある良き人生の直接的なメタファーに女性キャラ(リンダ)を据えているのは、やっぱり好きではないけれど。

 

カークが返り討ちに遭っても死んではおらず、ラストもう生きてるうちに出所できないであろうテルに面会に来るのが先に出所していたカークで、テルとカークが互いの「あり得たかもしれない救い」であったなら、上記した「結局この作品も女性を弱者男性の"救い"にしているのでは?」あるいは「"恋愛"に人生の重きを置き過ぎでは?」という私の不満は解消されたかもしれない。

 

 

 

この記事は観賞日にTwitterに投稿した以下のツイートをまとめ、大幅に加筆したものです。

https://twitter.com/ubuhanabusa/status/1672258923464888321?s=46&t=4tsZUPpZzK2N5GtXRmqOOw